執行役員制度の導入及び役員の異動

執行役員

高松宮杯のレース後、陣営は秋シーズンのオグリキャップのローテーションを検討し、毎日王冠を経て天皇賞(秋)でGIに初出走することを決定した。毎日王冠までは避暑[40]を行わず、栗東トレーニングセンターで調整を行い[41]、8月下旬から本格的な調教を開始。9月末に東京競馬場に移送された[42]。高速バス 毎日王冠では終始後方からレースを進め、第3コーナーからまくりをかけて優勝した。この勝利により、当時の中央競馬の重賞連勝記録である6連勝を達成した[43]。当時競馬評論家として活動していた大橋巨泉はオグリキャップのレース内容について「毎日王冠で古馬の一線級を相手に、スローペースを後方から大外廻って、一気に差し切るなどという芸当は、今まで見たことがない」、「どうやらオグリキャップは本当のホンモノの怪物らしい」と評した[44]。毎日王冠の後、オグリキャップはそのまま東京競馬場に留まって調整を続けた[45]。(レースに関する詳細については第39回毎日王冠を参照) 続く天皇賞(秋)では、前年秋から7連勝(重賞5連勝、GIを2連勝)中[46]であった古馬のタマモクロスを凌いで1番人気に支持された。レースでは馬群のやや後方につけて追い込みを図り、出走馬中最も速い上がりを記録したものの、2番手を先行し直線で先頭になったタマモクロスを抜くことができず、2着に敗れた。(レースに関する詳細については第98回天皇賞を参照)夜行バス 天皇賞(秋)の結果を受け、馬主の佐橋がタマモクロスにリベンジを果たしたいという思いを強く抱いたことからオグリキャップの次走にはタマモクロスが出走を決めていたジャパンカップが選ばれ[47]、オグリキャップは引き続き東京競馬場で調整された[48]。レースでは天皇賞(秋)の騎乗について佐橋が「もう少し積極的に行ってほしかった」と不満を表したことを受けて河内は瀬戸口と相談の上で先行策をとり[49]、序盤は3、4番手に位置した。しかし向こう正面で折り合いを欠いて後方へ下がり、第3コーナーで馬群の中に閉じ込められる形となった。第4コーナーから進路を確保しつつ前方への進出を開始したがペイザバトラーとタマモクロスを抜けず3着に敗れた。河内の騎乗に不満をもった陣営はレース後のパーティの席で岡部幸雄へ有馬記念の騎乗依頼を行った。これを岡部は「1戦限り」の条件付きで受諾した。 有馬記念までの間は美浦トレーニングセンターで調整を行うこととなった[50]。レースでは終始5、6番手の位置を進み、第4コーナーで前方への進出を開始すると直線で先頭に立ち、優勝。GI競走初制覇を達成し、同年のJRA賞最優秀4歳牡馬に選出された。(レースに関する詳細については第33回有馬記念を参照) クラシック登録格安航空券 国内 前述のように、オグリキャップはクラシック登録をしていなかったため、中央競馬クラシック三冠競走には出走できなかった。このことは競馬ファンの間で大きな物議を醸し、とくにオグリキャップが優勝した毎日杯で4着だったヤエノムテキが皐月賞を優勝した後は、大橋巨泉が「追加登録料を支払えば出られるようにして欲しい」と提言するなど、中央競馬を主催する日本中央競馬会に対してオグリキャップのクラシック出走を可能にする措置を求める声が起こった[51]が、実現しなかった。このことからクラシックに出走できなかったオグリキャップは「幻のダービー馬」と呼ばれた[52][53]。一方、毎日杯の結果を根拠にヤエノムテキをはじめとする同世代のクラシック優勝馬の実力が低く評価されることもあった[54]。 なお1992年から、中央競馬はクラシックの追加登録制度(通常のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料を払えばクラシック競走に出走できる制度)を導入した[55]。 5歳(1989年)バリ 競走内容 陣営は1989年前半のローテーションとして、大阪杯、天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走するプランを発表したが、2月に右前脚の球節[56]を捻挫して大阪杯の出走回避を余儀なくされた。さらに4月には右前脚に繋靭帯炎を発症。前半シーズンは全て休養に当てることとし、同月末から競走馬総合研究所常磐支所にある温泉療養施設(馬の温泉)において治療を行った。療養施設へは厩務員の池江が同行し温泉での療養のほかプールでの運動、超音波治療機による治療[57]が行われた[58]。オグリキャップは7月中旬に栗東トレーニングセンターへ戻り、主にプール施設を使った調教が行われた[59]。夜行バス オグリキャップは当初毎日王冠でレースに復帰する予定であったが、調教が順調に進んだことを受けて予定を変更し[60]、9月のオールカマーで復帰した。同レースでは5番手を進み第4コーナーから前方への進出を開始し、直線で先頭に立って優勝した。 その後オグリキャップは毎日王冠を経て天皇賞(秋)に出走することとなり、東京競馬場へ移送された[61]。移送後脚部に不安が発生したが厩務員の池江が患部を冷却した結果状態は改善し、毎日王冠当日は池江が手を焼くほどの気合を出した[62]。レースでは序盤は後方を進み、第4コーナーで馬群の外を通って前方へ進出を開始した。残り100mの地点でイナリワンとの競り合いとなり、ほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、史上初の毎日王冠連覇を達成した。このレースは「オグリキャップのベストバトル」、また「1989年のベストマッチ」ともいわれる[63]。(レースに関する詳細については第40回毎日王冠を参照)沖縄旅行 レンタカー 天皇賞(秋)では6番手からレースを進めたが、直線で前方へ進出するための進路を確保することができなかったために加速するのが遅れ、先に抜け出したスーパークリークを交わすことができず2着に敗れた。(レースに関する詳細については第100回天皇賞を参照) 続くマイルチャンピオンシップでは第3コーナーで5番手から馬群の外を通って前方への進出を試みたが進出のペースが遅く[64]、さらに第4コーナーでは進路を確保できない状況に陥ったが、直線で進路を確保してから猛烈な勢いで加速し、先に抜け出したバンブーメモリーとほぼ同時にゴールした。写真判定の結果オグリキャップがハナ差で先にゴールしていると判定され、優勝が決定した。(レースに関する詳細については第6回マイルチャンピオンシップを参照) 翌週のジャパンカップでは、非常に早いペース[65]でレースが推移する中で終始4番手を追走し、当時の芝2400mの世界レコード[66]である2分22秒2で走破したものの、ホーリックスの2着に敗れた[67]。(レースに関する詳細については第9回ジャパンカップを参照) 陣営はジャパンカップの後、有馬記念に出走することを決定したが、レース前に美浦トレーニングセンターで行われた調教で顎を上げる仕草を見せたことから、連闘の影響による体調面の不安が指摘された[68][69]。レースでは終始2番手を進み、第4コーナーで先頭に立ったがそこから伸びを欠き、5着に敗れた。レース後、関係者の多くは疲れがあったことを認めた[70]。(レースに関する詳細については第34回有馬記念を参照) 近藤俊典への売却 1988年9月、オグリキャップの2代目の馬主であった佐橋五十雄が将来馬主登録を抹消される可能性が出た[71]。それを受けて多くの馬主から購入の申し込みがあり、最終的に[72]佐橋は1989年2月までに近藤俊典へオグリキャップを売却した[73][74]。ただし、オグリキャップが競走馬を引退した後は所有権を佐橋に戻すという条件付きであった[75][76]。この契約については、実態は名義貸しであり、実質的な権限は佐橋に残されているのではないかという指摘がなされた[77][78]。また、売却価格の高さも指摘された[79][80]。 1989年のローテーション 3ヵ月半の間に6つのレースに出走した1989年のオグリキャップのローテーション、とくに前述の連闘については、多くの競馬ファンおよびマスコミ、競馬関係者は否定的ないし批判的であった。[81][82][83]。この年の秋に多くのレースに出走するローテーションが組まれた背景については、「オグリ獲得のために動いた高額なトレードマネーを回収するためには、とにかくレースで稼いでもらうよりほかはな」く、「馬を酷使してでも賞金を稼がせようとしているのでは」という推測がなされた[84]。SEO対策 調教師の瀬戸口は連闘に加えオールカマーに出走させたことについても、「無理は少しあったと思います」と述べた[85]。また連闘が決定した経緯について調教助手の辻本光雄は、「オグリキャップは途中から入ってきた馬やし、どうしてもオーナーの考えは優先するんちゃうかな」と、馬主の近藤の意向を受けてのものであったことを示唆している[86]。一方、近藤は連闘について、「馬には、調子のいいとき、というのが必ずあるんです。実際に馬を見て判断して、調教師とも相談して決めたことです。無理使いとか、酷使とかいわれるのは非常に心外」としている[87]。また稲葉牧場の稲葉裕治は、「あくまで馬の体調を見て、判断すればいいことじゃないでしょうか」と近藤に同調した[88]。 6歳(1990年)