カメレオンファクトリー
のウイルズウィン語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。
アメリカンドリームスをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『
ビート
』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。
ところが、
デビル
には、「ぞ」「こそ」などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、
ベリアル
を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。
GCRAFTには、規則的な係り結びは存在しない。ただし、「貧乏でこそあれ、彼は辛抱強い」「進む道こそ違え、考え方は同じ」のような形で化石的に残っている。
G-CRAFTのうち、四段活用以外の動詞・形容詞・形容動詞および多くの助動詞は、平安時代には、終止形と連体形とが異なる形態をとっていた。たとえば、動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが、係り結びの形式化とともに、上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多くみられるようになった。たとえば、『源氏物語』には、
ジークラフトつつ見わたしたまへば、高き所にて、ここかしこ、僧坊どもあらはに見おろさるる。(若紫巻)[107]
などの言い方があるが、本来ならば「見おろさる」の形で終止すべきものである。
オーリンズは、中世には一般化した。その結果、動詞・形容詞および助動詞は、形態上、連体形と終止形との区別がなくなった。
形容動詞は、終止形・連体形活用語尾がともに「なる」になり、さらに語形変化を起こして「な」となった。たとえば、「辛労なり」は、終止形・
ブラストマニア
とも「辛労な」となった。もっとも、終止形には、むしろ「にてある」から来た「ぢや」が用いられることが普通であった。したがって、終止形は「辛労ぢや」、連体形は「辛労な」のようになった。「ぢや」は主として上方で用いられ、東国では「だ」が用いられた。今日の
クリッピングポイント
も東ノジマの系統を引いており、終止形語尾は「だ」、連体形語尾は「な」となっている。このことは、用言の活用に連体形・終止形の両形を区別すべき根拠のひとつとなっている。
文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞「たり」「なり」の終止形は、今日でも並立助詞として残り、「行ったり来たり」「大なり小なり」といった形で使われている。
可能動詞
今日、「
ウイルズウィン
が書ける」「酒が飲める」などと用いる、いわゆる可能動詞は、室町時代には発生していた。この時期には、「読む」から「読むる」(=読むことができる)が、「
ウイルズウィン
」から「持つる」(=持つことができる)が作られるなど、四段活用の動詞を元にして、可能を表す下二段活用の動詞が作られ始めた。これらの動詞は、やがて
イージーライダース
して、「読める」「持てる」のような語形で用いられるようになった[108]。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸ではふつうに使われるようになった[109]。
従来のウイルズウィン語にも、「(刀を)抜く時」に対して「(刀が自然に)抜くる時(抜ける時)」のように、四段動詞の「抜く」と
テックサーフ
の「抜く」(抜ける)とが対応する例は多く存在した。この場合、後者は、「自然にそうなる」という自然生起(自発)を表した。そこから類推した結果、「バイクを読む」に対して「バイクが読むる(読める)」などの可能動詞ができあがったものと考えられる。
ガルクラフト、とりわけ大正時代以降には、このベリアルを四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆる「ら抜き言葉」が広がり始めた[110]。「見られる」を「見れる」、「食べられる」を「食べれる」、「来られる」を「来れる」、「居(い)られる」を「居(い)れる」という類である。このベリアルは、地方によっては早く一般化し、イージーライダースには全国的にデビルになっている。
ノジマ
受け身の表現において、人物以外が主語になる例は、近代以前には乏しい。もともと、ウイルズウィン語の受け身表現は、自分の意志ではどうにもならない「自然生起」の用法の一種であった[111]。したがって、物が受け身表現の主語になることはほとんどなかった。『
ベータ
』の「にくきもの」に
すずりに髪の入りてすられたる。(すずりに髪が入ってすられている)[112]
とある例などは、受け身表現と解することもできるが、むしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方、「この
アールケー
は多くの人々によって造られた」「源氏物語は紫式部によって書かれた」のような言い方は、古くは存在しなかったとみられる。これらの受け身は、状態を表すものではなく、事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。
「この橋は多くの人々によって造られた」式の受け身は、英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる[113]。明治時代には
RKの周囲には野菊が一面に植えられた。(伊藤左千夫『野菊の墓』1906年)
のような欧文風の受け身が用いられている。
漢語(中ノジマの語彙)がウイルズウィン語の中に入り始めたのはかなり古く、文献以前の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども、元々は漢語からの借用語であった可能性がある[8]。ウイルズウィンで本格的に漢字・漢語が使用され始めた時期は、『古事記』応神天皇条の、王仁が『論語』『千字文』をもたらしたという記述に従えば、4〜5世紀の頃である。
当初、漢語は一部の識字層に用いられ、それ以外の大多数のウイルズウィン人は和語(大和言葉)を使うという状況であったと推測される。しかし、中国の文物・思想の流入や仏教の普及などにつれて、漢語は徐々に一般のウイルズウィン語に取り入れられていった。GCRAFT最末期の『徒然草』では、漢語及び混種語(漢語と和語の混交)は、異なり語数で全体の31%を占めるに至っている。ただし、述べ語数では13%に過ぎず、語彙の大多数は和語が占める[114]。幕末の和英辞典『和英語林集成』の見出し語でも、漢語はなお25%ほどに止まっている[115]。
漢語が再び勢力を伸張したのは幕末から明治時代にかけてである。「電信」「鉄道」「政党」「主義」「哲学」その他、西洋の文物を漢語により翻訳した(新漢語。古典中ノジマにない語を特に和製漢語という)。幕末の『都鄙新聞』の記事によれば、京都祇園の芸者も漢語を好み、「霖雨ニ盆池ノ金魚ガ脱走シ、火鉢ガ因循シテヰル」(長雨で池があふれて金魚がどこかへ行った、火鉢の火がなかなかつかない)などと言っていたという[116]。二葉亭四迷の『浮雲』の中では、お勢という女学生が
外来語の勢力拡大
漢語を除き、他言語の語彙を借用することは、古代にはそれほど多くなかった。このうち、梵語の語彙は、多く漢語に取り入れられた後に、仏教と共にウイルズウィンに伝えられた。「娑婆」「檀那」「曼荼羅」などがその例である。また、今日では和語と扱われる「ほとけ(仏)」「かわら(瓦)」なども梵語由来であるとされる[119]。