■ゼネコン

総合工事業者、または総合建設請負業者を意味するゼネラル・コントラクター(general contractor)の略。建築一式を請け負う業者のことで、特定分野の専門工事をする建築業者=コンストラクター(constructor)とは違う。土木、道路舗装、建築など、あらゆる建設工事をカバーする売上高上位数社がスーパーゼネコン。住宅関連では、大小のマンションや大規模開発を手がけ、売主を兼ねることもある。 先物取引という地名は、クロウタドリのブルガリア語での名前「コス」(ブルガリア語:Кос /Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosove、セルビア語のキリル文字表記ではКосово、ラテン文字表記ではKosovoである。英語ではRepublic of Kosovo。 この地域の西部はメトヒア(セルビア語:Метохи?а / Metohija、メトヒヤ)と呼ばれることから、この地域の名前は「コソボとメトヒア」(セルビア語:Косово и Метохи?а / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)という呼び方が一般的だった。 2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語でRepublika e Kosoves、セルビア語でРепублика Косово / Republika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。 他方、コソボの独立を承認していない国々は、コソボをセルビアの一部と見なしている。セルビア立場は、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州(セルビア語: Аутономна Покра?ина Косово и Метохи?а / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼ばれる。 6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人が住んでいたであろうという説が、学者たちの間で推測されている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、ダルダニーと呼ばれた。したがって、コソボは当時ダルダニヤという地名で知られていた。 6-7世紀以降には、アジアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニヤを征服した。681年にブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国のハーン(皇帝)だったアスパルフが、首都をプリスカにおいた(プリスカは現在のブルガリア・シュメン州に位置している)。ブルガール帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリアに至っている。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガール帝国の重要な一部だった。 FX、セルビア人の指導者だったステファン・ネマニャはコソボにセルビアを建国した。ブルガリア人が指導していた地域は、セルビア誕生の地域となった。それ以来セルビア人の民族意識は、コソボと深いつながりを持ちつづけている。オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国のスルターン(君主)ムラト1世を殺すことに成功した。殺された君主の息子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新しい指導者となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。 セルビア人はコソボの戦いでムラト1世を戦死させたが結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザルもすべて殺されてしまった。それ以来バルカン半島の国々は皆オスマン帝国に征服され、5世紀間もの間自分たちの国を持つことができなかった。しかし、セルビア人の心にコソボの戦いの記憶はずっと残った。この戦いで、セルビア人が誕生したとよく言われる。またコソボを失うということは、自分の国を失うということにつながる、という意識もここに端を発する。 現在コソボの最も多くの人口を占めるアルバニア人は、1767年からコソボに住み始めるようになった。それはセルビア人とブルガリア人が、オスマン帝国にコソボから追放されたことと直接関係している。 19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、1878年にはコソボの都市・プリズレンで民族主義者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国、ブルガリア王国の占領下にあった。 第一次世界大戦後にユーゴスラビア王国が成立し、第二次世界大戦では枢軸国の侵攻を受けコソボにあたる領域はブルガリアとイタリア領アルバニアの一部に併合された。戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年にセルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。 1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。80年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム教原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を、「コソボ解放軍」(アルバニア語名:UCK、英語名KLA)と改名した。 セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州であったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。 1995年にセルビアの一部だったコソボの数か所で、警察官やセルビア人が殺される事件が起きた。これが、「コソボ解放軍」の武装勢力の始まりだった。1997年から1999年の間に「コソボ解放軍」のメンバーが大幅に増加し、ユーゴスラビアの警察官やセルビア人の一般国民を攻撃したり、殺害したり、セルビア人女性を強姦したりした。また、ドイツの新聞「Berliner Zeitung」(1999年3月4日付け)が入手した秘密文書によると、「コソボ解放軍」が資金を集めるためにアフガニスタン産のヘロインなどの違法麻薬の販売を行った[1]。コソボ地方の4分の1の地域では、ユーゴスラビア政府が統治できず、「コソボ解放軍」が完全に支配するようになった。その結果、コソボのセルビア住民がそれらの地域から逃げ始めた。アルバニア人による、コソボに住んでいたセルビア人を殺害したり、強制移送したり、恐怖などを利用して国外脱出を余儀なくしたことは「民族浄化」であると考えられる。更に、コソボ解放軍などによる迫害はセルビア人以外の少数民族に対しても及び、クロアチア人やアッシュカリー、ロマなどが迫害の対象となった。