不動産会社と取引するときの取引態様の1つ。売主や貸主に代わって取引の交渉を行う会社(エージェント)。買主や借主との契約も行う。新規分譲の営業活動を含めて行う場合は販売代理という。販売代理の不動産会社を通して購入する場合、買主は売買代金以外の手数料を支払わないで済むのが普通。ただ、宅建業法上は販売代理の会社が買主から手数料を取ることを禁止してはいないため、まれに手数料を請求されるケースもある。
為替には恵まれておらず、石灰岩以外には天然ガスと品質の低い石炭を産出するのみである。しかしながら、自国の石炭と豊富な水力をエネルギー源として利用できるため、貿易に占める化石燃料の比率は12%と高くない。主な産出地を挙げると、原油や天然ガスはプレクムリェ地方、水銀鉱山はイドリヤ(ただし1977年に廃止された)、石炭はトルボヴリェ、ザゴリェ・オプ・サヴィ、フラストニク、亜炭鉱山はノヴォ・メストである。
電力生産は116億8200万キロワット時で、内訳は火力が40%、水力が25%、原子力が35%である(1993年)。
工業では、絹織物の生産が際立つ。生産量1036万平方メートル(1995年)は世界第10位である。
全土がケッペンの気候区分でいう温暖湿潤気候と西岸海洋性気候に覆われているため、気候は農業に向いている。
しかしながら起伏に富んだ地形が広がるため、耕地面積は全土の14.1%と少ない。
ビールの原料となるホップ生産は2002年時点で世界第8位(シェア2.0%)を占める2000トン(ジャレツでの栽培が盛ん)。主食となる穀物では約2/3がトウモロコシ、残りが小麦。漁業は未発達であり、年間漁獲高は2000トンに達しない。穀倉地帯は平坦な土地が広がるリュブリャナ周辺やプレクムリエ地方である。沿岸地方ではワインの原料となるブドウ栽培が盛んである。
外貨預金、羊などの家畜も飼育されており、そしてカルスト地方のリブニツァという村では昔からウィーンの宮廷でパレードなどに使われる儀典用馬の飼育がなされている。
2002年時点では、輸入額109億ドルに対し、輸出額が95億ドルであるため、貿易赤字の状態である。これを11億ドルの観光収入などで埋め合わせているため、貿易外収支を含めると、バランスの取れた状態であると言える。貿易依存度は輸出43.1%、輸入49.8%と非常に高い(例えば隣国イタリアはいずれも20%程度)。国際貿易港はコペルである。他にもピランとイゾラに小さな港がある。
2002年時点では、主な輸入品目は工業製品であり、金額にして80%を超える。次いで、原料・燃料、食料品である。細目では、一般機械、自動車、電気機械の順。輸入相手国はドイツ (19.1%)、イタリア、フランスの順であり、対EUが60%を超える。旧ユーゴスラビア諸国に対しては、クロアチアが3.6%と最も高いが、輸入相手国としては重要ではない。
主な輸出品目は工業製品であり、金額ベースで90%を超える。輸入品目と合わせると、スロベニアが加工貿易に強いことが理解できる。細目では、電気機械、自動車、一般機械の順である。輸出相手国はドイツ (24.7%)、イタリア、クロアチアの順である。
IPOで、輸入9665万ドルに対し、輸出3172万ドルと、貿易赤字である。主な輸入品目は自動車 (58.0%)、オートバイ、医薬品、輸出品目は、衣類、家具、スキー用品となっている。
代表的な観光資源は首都リュブリャナ、アルプス山脈(トリグラウ山、ブレッド、ボーヒニなど)、アドリア海(コペル、ピラン)、カルスト地方の洞窟(シュコツィアン洞窟群、ポストイナ)、温泉である。
住民は、スロベニア人が89%、旧ユーゴスラビア系の住民(クロアチア人、セルビア人、ボシュニャク人)が10%、ハンガリー人やイタリア人が0.5%である。ハンガリー人とイタリア人は議会内に1議席ずつ代表を持つ。ドイツ系住民は数百人しか残っていない。
言語は、スロベニア語が公用語になっている。第二言語としては英語がもっとも普及している。
国内に数多くのスキーリゾートを抱えていることからスノースポーツが盛んである。クラニスカ・ゴラにおけるアルペンや、世界最大のジャンプ台を擁するプラニツァにおけるジャンプは世界的にも有名である。一方、ヨーロッパの国の中ではサッカーは人気があるスポーツではなかったが、その中で2000年のヨーロッパ選手権本大会、2002年のFIFAワールドカップ本大会に出場したことは国内外で大きな驚きと共に捉えられ、新興国スロベニアの知名度を大いに高めることになった。
1918年のサン・ジェルマン条約により「セルビア・クロアチア・スロヴェニア人国」が建国された。ところが、建国当初から内紛が頻発、1929年にクロアチア王アレクサンダル1世がクーデターを起こしユーゴスラビア王国とした。 第二次世界大戦ではナチス・ドイツに侵攻され、王国政府はロンドンに亡命政権を樹立し、ユーゴスラビア王国軍で主流であったセルビア人将校を中心としたチェトニックを組織してドイツ軍に対抗した。しかしチェトニックは士気が弱く、代わってドイツに対しての抵抗運動を展開したヨシップ・チトー率いるパルチザンがドイツ軍に対して粘り強く抵抗し、ソ連軍が侵攻してくる前にユーゴスラビアの自力で駆逐した。 ユーゴスラビアを自力で解放することに成功したチトーは、王の帰国とロンドンの亡命政権を否定し、従来のユーゴスラビアの枠組みの中で、戦後の再建を始めた。戦後の政権党となったユーゴスラビア共産党(その後1952年にユーゴスラビア共産主義者同盟に改称)は、1948年にコミンフォルムを追放されて以降、ソ連のコントロールから外れ、マーシャル・プランを受け入れる姿勢を取り、ソ連と対立して、その後断交と国交回復を繰り返した。1953年にチトーが大統領となり、ソ連と一線を画した社会主義政策を展開し、第三世界の主要国としての地位を確立した。しかし、1980年にチトーが死ぬと地域格差や民族対立が顕在化し、1990年にはクロアチア、スロベニアが独立。1992年にボスニア・ヘルツェゴビナが独立、この結果ユーゴスラビアは崩壊した。
株、セルビアとモンテネグロの2つの共和国で新たなユーゴスラビア連邦を形成。コソボではセルビアが内戦の起きていたクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナからのセルビア人難民のコソボ殖民を強力に推し進めたため、コソボにおける民族バランスが大きく崩れることになった。これに危機感を抱いたコソボ民族派によりコソボ紛争が引き起こされ、1999年の北大西洋条約機構による爆撃に至った。1997年以降モンテネグロの独立要求が強まったため、2003年から連合形式を変更しセルビア・モンテネグロとして緩やかな連合国家を形成した。 その後、以前から独立を志望していたモンテネグロは、2006年5月21日の独立についての住民投票の結果、賛成55.5%でモンテネグロ共和国の独立が決定した。これによって、モンテネグロは2006年6月3日(現地時間)に独立を宣言し、1918年のセルビアとの併合以来、88年ぶりに独立を回復することとなった。これにより、第2次世界大戦後のスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6共和国で誕生したユーゴスラビア連邦は完全に解体した。2006年6月5日、モンテネグロの独立に伴い、セルビアも独立宣言。→ウィキニュースそして2008年2月17日には自治州であったコソボも独立を宣言した。
セルビアは共和制、議院内閣制を採用する立憲国家である。現行憲法は2006年11月に発布されたもの。事実上、セルビアから分離状態にあるコソボにおいては、国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)を頂点とする独自の統治機構が存在するが、セルビア共和国憲法ではコソボを「セルビアの不可分の地方」としている。
国家元首である大統領は国民の直接選挙で選出され、任期は5年。3選禁止。元首としてセルビア共和国を代表し、形式的に国軍の最高司令官を務め、国民議会の解散や非常事態発令を行なう。また、国民議会が可決した法案を差し戻し、再審議させる権利もあるが、国民議会が再度法案を可決した場合は、大統領の認可がなくとも法律として制定される。
実際の政治は行政府たる内閣が率いる。国民議会により選出された首相が組閣を行なうが、国民議会による承認が必要。
立法府は一院制の国民議会で、定数250議席。議員は国民の直接選挙で選出され、任期は4年。